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東京地方裁判所 昭和36年(ワ)5924号 判決

原告 西村周三

被告 国

訴訟代理人 神原夏樹 外二名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事  実 〈省略〉

理由

一  本件山林および付近一帯が明治維新前旧弘前藩の所領であつたこと、そのころ同藩においては、殖産興業の手段として漆方等の制度を設けて領民に漆木の仕立(植栽)を指導奨励していたこと、原告の曽祖父西村幸助が同藩より漆木の仕立方を命ぜられ、「旧藩漆仕立場所元帳」に「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」一万二、〇〇〇坪と表示された土地(それが源兵衛沢を含むかどうかおよび一万二、〇〇〇坪の表示が右土地のうちの限られた特定の地域を指すものであるかどうかの点はしばらくおく。)については安政二年(一八五五年)に漆木二、五〇〇本を、同元帳に池の平一万二、〇〇〇坪、田茂ケ平一万二、〇〇〇坪と表示された土地についてはともに文久元年(一八六一年)にそれぞれ漆木五〇〇本および三〇〇本を植付けたこと、幸助が文久二年(一八六二年)正月に右表示の土地三か所の割渡しを受けたこと、以上の各事実は当事者間に争いがない。

二  原告は、弘前藩制における割渡しは割渡地に植付けた漆木が成木しないことを解除条件とする割渡地についての所有権の付与であり、幸助は前記割渡しの一事によつて本件山林の所有権を取得した旨主張するので、まず、この点につき判断するに、原告が右主張の根拠としてるる述べるところは要するに割渡しの制度一般論ならびに行政裁判所の一判決における文言の形式的理解を前提とするものに過ぎず、そのことから直ちに割渡しが原告主張のような法的性質を有するものと認定することはとうていできないといわざるをえない。また、本件全証拠を検討するも、割渡しが原告主張のような法的性質をもつものであることを認めるに足りる証拠はない。

かえつて、〈証拠省略〉によれば、弘前藩制における割渡しは各事例毎に割渡年度と漆木の植付年度の先後の関係が区々であり、割渡年度が漆木の植付年度に先立つものもあれば、その逆の事例もあることおよび割渡しの事例の中には右元帳に割渡年度の記載のないもの、植付本数あるいは植付年度の記載のないもの、割渡地の面積の記載のないものあるいはその面積が概数で記載されたものが多数あることが認められ、右認定の事実と〈証拠省略〉を併せ考慮に入れると、割渡しそのものの法的性質は、被告主張のように藩庁側で漆木仕立の適地を選定して漆木仕立の希望者に対しそのおおよその面積を指示して特定の地域に限つてなされた漆木植栽の許可(あるいはその追認)であり、したがつて、割渡しそれのみではいまだ割渡地についての所有権を取得するものではないと解するのが相当であり、右認定を動かしうる証拠はない。

そうすると幸助が前記割渡しの一事によつて本件山林の所有権を取得したとの原告の主張は理由がないことに帰する。

三  原告は、また、弘前藩制においては、割渡は割渡地に植付けた漆木が成木することを停止条件とする割渡地についての所有権の付与であり、幸助が赤滝沢より上赤荷沢までの土地に植付けた漆木は成木したから、同人は右土地の所有権を取得した旨主張するので、次に、この点につき判断する。

仮に、原告主張のように弘前藩制において割渡しを受けた者は割渡地に植付けた漆木が成木したときは割渡地につきその者の持分として田畑同様譲渡が許されたとするならば、割渡しそのものの本来の法的性質は前示のとおりであるにしても、これを割渡地についての停止条件付の所有権の付与の性質をも併有するものと解する余地があるが、その点の判断はしばらくおき、幸助が赤滝沢より上赤荷沢までの土地に植付けた漆木が果して原告主張のように成木したか否かについて判断することにする。

ところで、原告主張のような停止条件の成就としての漆木の成木の意義について考えるに、漆木の植栽が漆の採液を目的とするものであることはいうまでもないところ、漆の採液は通常樹令一〇年前後のものから行なわれることは当事者間に争いがないから、個々の漆木の成木とは漆の採液に適する樹令一〇年前後に成育することを意味すると解すべきであるが、原告主張のように一定の地域の所有権の取得の前提となる漆木の成木とは、漆仕立制度の趣旨等に鑑みて、個々の漆木の成木のみでは足りず、当該地域に植付けた漆木の相当程度の本数が右地域の相当な面積にわたつて成木することを意味すると解すべきことは理の当然である。よつて、以下、このような見解のもとに本件について判断する。

原告は、まず、赤滝沢より上赤荷沢までの土地について幸助が漆木を植付けてから七年後にそれが根付いたことを確認して割渡しが行なわれたから、右事実より成木の事実を推認すべき旨主張し〈証拠省略〉には幸助が植付けた漆木三〇〇本が根付いた旨の記載があるが、右の文面全体の記載からは果して幸助が赤滝沢より上赤荷沢までの土地に植付けた漆木が根付いたことを記載しているものかどうかは判然とせず、むしろ、植付本数の点からみて幸助が池の平あるいは田茂ケ平に植付けた漆木が根付いたことを証するに止まると解する余地が多分にある(ちなみに、後記認定のとおり、幸助が池の平に植付けた漆木は成木したものと認められる。)から、〈証拠省略〉をもっては、幸助が赤滝沢より上赤荷沢までの土地に植付けた漆木が根付いたこと認めるに足りず、その他、原告主張のように幸助が右土地に安政二年に植付けた漆木が根付いたことを直接証する証拠もなければ、根付いたことを確認して右土地の割渡しが行なわれたことを認めるに足りる証拠もない。前認定のとおり、割渡しの事例には漆木の植付け前に割渡しが行なわれているものが多数あることよりすれば、元来、割渡しは必ずしも植付けた漆木が根付いことを確認して行なわれたものとは考えられない。そうすると、原告主張のように幸助が赤滝沢より上赤荷沢までの土地に漆木を植付けて七年後に割渡しを受けたことから直ちに右漆木が成木したことを推認することはとうていできない。

次に、原告は、幸助が池の平に植付けた漆木は成木したから、地勢、林相等の比較上右土地より漆木植栽に適した赤滝沢より上赤荷沢までの土地に植付けた漆木は当然成木したものと推認すべき旨主張し、さらにまた、当局が大正一四年と昭和二年に赤滝沢より上赤荷沢までの土地および田茂ケ平を調査した結果多数の漆立木や漆木の伐根が発見されたから、右各調査結果は右成木の事実を裏付ける旨主張するので、これらの点につき考える。

なるほど、幸助の相続人西村久五郎が池の平の土地につき明治三七年八月二四日国有土地森林原野下戻法に基づき明治政府から右土地に幸助が植付けた漆木が成木していることを理由の一つとして下戻しを受けたことは当事者間に争いがなく、〈証拠省略〉を併せ考ると、幸助が池の平に植付けた漆木は成木したものと認められる。また、当局が大正一四年に赤滝沢より上赤荷沢までの土地および田茂ケ平を調査した結果当時右地域内に直径三寸以上の漆立木四八本、伐根四五本、直径三寸以下の漆立木一五六本が発見されたこと(右調査において漆の苗畑跡五か所が発見されたとの原告主強の事実は〈証拠省略〉をもつていまだ認めるに足りず、また、〈証拠省略〉中右主張に副う部分は右各書証に基づき作成されたものであることが〈証拠省略〉の記載自体から明らかであるからにわかに採用し難く、他にこれを認めるに足りる証拠はない。)および大正一四年の右の調査をもとにして当局が昭和二年に再調査した結果、改租(明治九年)前の生立にかかる漆立木が九本発見されほか、改租後の生立にかかるかなりの数の漆立木が発見されことは当事者間に争いがないところ、〈証拠省略〉によれば、昭和二年の右調査によつて発見された改租前の生立にかかる九本は植栽されたものであることが推認される(もつとも、その推定最高樹令は昭和二年当時で六三年であることが〈証拠省略〉によつて認められるから、右九本は幸助が安政二年に植付けた漆木でないことは明らかである。)うえ、漆の採液は一〇年生内外のものから行ない、「かき殺し」の方法あるいは隔年毎に採液して一定期間後伐採し、母樹を残して更新する方法等によることおよび漆木は母樹の天然下種や伐根からも生育するものであることは当事者間に争いがないから、前記各調査結果は、幸助が赤滝沢より上赤荷沢までの土地に植付けた漆木のなかには成木したものがあることを推認させるもののようにみえないではない。

しかしながら、〈証拠省略〉によれば、漆木の成育には比較的傾斜の少ない肥沃な土地で、かつ、日当りと排水の良い土地が適しているところ、赤滝沢より上赤荷沢までの土地(その範囲は、仮に原告主張のとおりと解したとしても)は、赤滝沢付近や源兵衛沢の一部に緩傾斜の土地があるものの急峻地帯も多く、また、林相も天然性のヒバの巨木を主要樹としてそれにぶな等の広葉樹の混つた針広混淆林であつて、必ずしも漆木の成育に適した土地ではないのに対し、池の平は右土地よりは全体とし傾斜が緩く、林相も全体として樹木が小さく、そのうえ杉やひのきの造林地もあつて右土地とは林相が異なつていることが認められるから、原告主張のように幸助が池の平に植付けた漆木が成木した事実をとらえて、池の平と赤滝沢より上赤荷沢までの土地との地勢、林相等の単純な比較から直ちに後者の土地についても成木の事実を推認することは早計のそしりを免れない。のみならず、〈証拠省略〉よれば、当局は、前認定のように明治三七年八月二四日西村久五郎に対し国有土地森林原野下戻法に基づき池の平の下戻しを許可したが、それに先立ち、右久五郎より下戻し申請のなされていた赤滝沢より上赤荷沢までの土地、池の平、田茂ケ平の三ケ所全部について、明治三六年農商務省山林局属長嶋啓二郎、同中村勢之助が現地調査をし〈証拠省略〉の結果中、右認定に反する部分は〈証拠省略〉と対比してにわかに信用し難く、他に右認定を妨げるに足りる証拠はない。)、その結果、池の平については多数の漆立木や漆木の大小の根株の存在が認められて、相当本数の漆木の植栽とその成木の事実が推認されたため、右土地は明治三七年八月二四日西村久五郎に下戻しされるに至つたが、赤滝沢より上赤荷沢までの土地については、相当本数の漆木の植栽とその成木の事実を推認されるだけの漆立木の根株が発見されなかつたため、下戻しが許可されるに至らなかつたことが認められる。右の認定事実に照らして考えると、前認定にかかる幸助が池の平に植付けた漆木が成木した事実および当局による大正一四年と昭和二年の赤滝沢より上赤荷沢までの土地について調査の結果から、幸助が右土地に植付けた漆木二、五〇〇本のうちの相当程度の本数が右地域(右地域を原告主張のようにその全域と広く解した場合はいうに及ばず、仮りに、被告主張のようにそのうちの一万二、〇〇〇坪と狭く解したとしても)の相当な面積にわたつて成木したものと推認することは困難であるといわざるをえない。

原告は、右成木の事実を推認させる事情として、幸助が前記割渡しを受けた際弘前藩から苗字を許された事実および赤滝沢より上赤荷沢までの土地と池の平、田茂ケ平の一帯が幸助の名にちなんで「西幸山」の通称をもつて地元民の間に伝承されている事実をも併せ主張しているが、たとえ原告主張のように幸助が弘前藩から苗字を許されたとしても(幸助が苗字帯刀を許された事実は〈証拠省略〉により認められる。)、それは前認定のように幸助が池の平に植栽した漆木を成木させた功労に対してなされたものとも考えられ、また、「西幸山」の通称の点も、〈証拠省略〉によれば、地元民の中には「西幸山」の通称を赤滝沢より上赤荷沢までの土地と池の平、田茂ケ平の全域を指して用いる者もあれば、池の平のみを指して用いる者もいることが認められるうえ、赤滝沢より上赤荷沢までの土地が「西幸山」の通称で呼ばれるのは単に幸助が漆木を植栽したことに起因すると考える余地もあるから、原告主張の苗字の許可の事実や「西幸山」の通称の事実から直ちに赤滝沢より上赤荷沢までの土地についての漆木の成木の事実は推認し難いばかりでなく、右の各事実を以上検討してきた原告主張のその他の各事実と併せ判断しても、右成木の事実の推認は困難であるといわざるをえない。

その他、本件全証拠を検討するも、赤滝沢より上赤荷沢までの土地について幸助が植付けた漆木が成木したことを認るに足りる証拠はない。

してみれば、幸助は赤滝沢より上赤荷沢までの土地の所有権を取得したとは認められず、したがつて、仮に原告主張のごとく本件山林がすべて右土地のうちに含まれるとしても、幸助が本件山林の所有権を取得しなかつたといわざるをえないから、右所有権の取得を前提とする原告の前示主張も失当というべきである。

四  以上によると、原告の本訴請求は、その余の争点について判断するまでもなく理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条を適用のうえ、主文のとおり判決する。

(裁判官 高津環 牧山市治 横山匡輝)

別紙〈省路〉

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